また来たいより、先に

長く住んだ街を離れる。

離れると決まってから、その街にあるものが、急に愛おしく見えてきた。

この街には、ずっと気になっていた酒場があった。 毎日のように横を通っていたのに、一度も暖簾をくぐったことがない。一度だけ予約の電話をかけたことがある。その日は満席。それっきり、なんとなく行けずにいた。

駅と家のちょうど真ん中にある酒場だった。外食する気満々で向かって振られると、駅前のスーパーまで戻るのが少し面倒くさい。じゃあスーパーに寄ってから覗こうかと思うと、入れてしまったら冷蔵の肉はどうするんだ、となる。

この日は珍しく、家に作り置きの肉味噌があった。入れなかったら、そうめんを茹でてのせて食べよう。

そんなことを考えながら、意を決して、えいやーっと暖簾をくぐる。やはり、はじめての酒場は緊張する。

常連客たちの視線を感じ、おもったより入り口から近いカウンターのお姉さんとばちっと目が合う。人を待っていたようで「あ、違ったわ」と言い、目を逸らされる。

店内は平日21時を過ぎているにも関わらず満席で、あちゃー入れないかと悟る。しかし、店主らしき人物がちょっと待ってて〜と厨房から案内してくださる。

外で待っているとほどなくして、男女2人が店を出ていく。とても楽しそうに酔っ払っていて、いい酒場な予感がする。

カウンターの端の席に案内される。

とりあえずビールを注文する。上を見上げるとホワイトボード手書きのおすすめメニューと、グランドメニューがある。

後ろのテーブル席で、「お待たせしました〜鰻重です〜」という声が聞こえる。人の卓を凝視するのは、よくない癖だなと思いつつ、条件反射で思わず後ろを振り返ってしまう。鰻重がメニューインしている酒場、素晴らしい。〆に鰻重を食べているのか、鰻重を目当てに来ているのか、どちらにせよ、なかなかの酒場玄人だなあと、感心してしまう。

刺身盛り合わせと賀茂茄子のそぼろあんかけを注文する。

こんなにおいしい刺身を東京来てから食べたかなあ、なんて思う。賀茂茄子は、型崩れしている様子もないのに、いとも簡単に口の中でじゅわっとほどける。

もう少し、この酒場にいたくなった。

海鮮グラタンを追加注文する。冬にハフハフしながら食べるグラタンも、夏に冬を思い出しながら食べるグラタン、どっちも好きだ。

ひとりでアツアツと戦っていると、常連さんが「海鮮グラタンおいしよねえ〜あついよねえ〜」と言いながら、横を通り過ぎていく。

一人で来たはずなのに、気づけば頭の中には何人もの顔が浮かんでいた。

あの友人が賀茂茄子を食べたら、なんて言うかなあ。

あの人と飲みに来たら、きっと瓶ビールを何本も空けるんだろうなあ。そういえば日本酒も飲むんだっけ。

胃袋が大きいあの子と来たら、〆の鰻重まで付き合ってくれそうだ。

一人で飲んでいるのに、不思議と賑やかだった。

気づけば、「また来たい」より先に、「あの人を連れてきたい」と考えていた。

少し店が落ち着くと、女将さんが「うちは来てくださったこと……ある?」と恐る恐る聞いてくる。

初めて来たこと。この街に住んでいながら、ずっと来られなかったことを話す。

「うちはカウンター五席だから、一人だったら予約なしでも入れる時あるので、またぜひ来てくださいね。」

そう言っていただく。もうすぐこの街を離れることは、なんとなく言い出せなかった。「また来ます」とだけ伝えて、店をあとにする。

その夜。夢に出そうだなあ、なんなら夢に出てきてほしいなあなんて考えながら、布団に入る。

賀茂茄子もグラタンも、結局夢には出てこなかった。

翌朝、友人へ「今度一緒に行こ〜」と連絡を入れた。

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