第1回では、小牧蒸溜所が水害から立ち上がり、徹底した洗浄と衛生管理によって品質を守り続けてきた姿をお届けした。
そこだけを見ると、伊勢吉氏は最初から蔵を背負う覚悟を持ち、一心に再生へ向かって歩んできた人物のように見えるかもしれない。
しかし、取材を進めると、そこにはまったく違う始まりがあった。
伊勢吉氏は、もともと蔵を継ぐつもりなどなかった。
むしろ、自分とは別の人生を歩むものだと考えていた。
それでも彼は、ある日突然、家族と蔵の運命の真ん中へと呼び戻されることになる。
兄がいたから、継ぐつもりはなかった
小牧家の4人兄弟の末っ子として生まれた伊勢吉氏には、5歳上の兄がいた。
その存在が、彼をある意味で自由にしていた。
「元々僕らは4人兄弟でね。5個上の兄貴が先に蔵に帰ったんですよ。僕はもう継ぐ気もなくて。というか、まあ兄貴がいたし、広島の醸造研究所にも行ってたんでね。だから僕は継ぐ気はなかったんですよ、全くね。」
醸造の専門機関で学んできた兄が蔵に入っている以上、年の離れた弟である伊勢吉氏が家業を意識する必要はなかった。
彼は蔵の将来を兄に任せ、自分自身の人生を歩んでいた。
伝統ある本格焼酎の世界は彼にとって誇るべき実家の文化ではあったが、自分の将来は別の場所にあると考えていた。

突然の呼び戻し
しかし、その状況はある日突然変わることになる。
「それが、親父と兄貴が喧嘩して、兄貴が家出しちゃうんですよ。それでそのまんまいなくなってしまって。時代はちょうど焼酎ブームが始まった頃……2000年かな。急遽『帰ってきてくれ』となって。そこからですね。そこからですよ。」
父親との喧嘩を機に、兄は蔵を飛び出して戻らなくなってしまったのだ。
当時の小牧蒸溜所は、外部の社員を雇わず、家族を中心に切り盛りをしていた。
中心人物だった兄の離脱は、蔵にとって大きな痛手だった。
しかも時代は、本格焼酎ブームがまさに押し寄せようとしていた時期である。
人手が決定的に不足するなかで、現場を守る家族だけで蔵を維持することは難しかった。家族と蔵を支えるため、実家から伊勢吉氏のもとに呼び戻しの連絡が入る。
彼は戸惑いを抱えながらも、生まれ故郷の蔵へと戻る決断をした。
「冬の時代」からブームへの転機
伊勢吉氏が蔵に戻った2000年前後、日本の酒類市場には大きな転機が訪れていた。
本格焼酎ブームが訪れる直前、1990年代の焼酎業界は厳しい状況に置かれていた。伊勢吉氏は、その背景にあった酒税制度の変化を、自身の記憶と実感を交えながらこう振り返る。
「1990年にね、日本のお酒が安すぎる、高すぎるからスコッチが売れないということで、マーガレット・サッチャーが日本を提訴するわけです。それで裁判で負けるんですよ、日本が。90年にウイスキーは関税が廃止になって、焼酎はそこから10年間かけて、2000年に向けて3回増税が起きる。もう超不遇の時代があったんですよ。バブルが弾けてすぐね。」
1980年代後半から1990年代にかけて、日本の酒税制度は国際的な争点となった。
当時、焼酎よりもウイスキーやブランデーなどに高い酒税が課されていたため、輸入酒類を不利に扱っていると指摘された。
そのため日本は、ウイスキーなどの税率を下げる一方、焼酎を段階的に増税し、税負担の差を縮めていった。
この制度改正による価格変化の背景が生活者へ十分に伝わらなかったことで、値下がりしたウイスキーは「価値が下がった酒」、値上がりした焼酎は「価値が上がった酒」のように受け止められた面もあったのではないかと、伊勢吉氏は振り返る。
「ウイスキーは1万円だったものが急に2000円になった。当時は情報ツールがないから、みんな裁判に負けたことを知らないわけですよ。それで『価値がなくなった』と思ってしまった。逆に焼酎は3度の増税があって、田舎の僕らは死にそうだったんだけど、世の中的には『価値が上がっていった酒だ』と勘違いされた。それが2000年の転機につながるんだけどね。」
さらに、1997年頃に起きた赤ワインブームをきっかけに、世間の健康志向が高まっていた。
「その前に、赤ワインブームが97年ぐらいにありました。それでちょっと健康志向になって、でも『赤ワインってきついな』と。だから『健康にならなくちゃ』という人たちが本格焼酎に目をつけた。酔い覚め爽やかで体に優しいということで、健康ブームと相乗して爆発した。そういう時代背景があるなかで、うちは宝酒造さんと提携することになって、人が足りないからということで僕が呼び戻されてるんですよ。」
大手メーカーである宝酒造との提携が決まり、本格芋焼酎『一刻者』の製造を共同で行うことになったが、とにかく人手が足りなかった。これが、伊勢吉氏が呼び戻された直接の背景である。

月給5万円、昼夜を厭わぬ過酷な生活
世間では「焼酎ブーム」と騒がれていた。
しかし、当時の小牧蒸溜所の内情は決して余裕のあるものではなかった。
「親父と母ちゃんと僕と、後から帰ってくる兄貴と、2番目の姉ちゃん。5人で作っていました。社員なし。家族体制でしたよ。本当のね、冬の時代だった。僕なんか20歳、21歳ぐらいですかね。」
急遽呼び戻されて蔵に入った伊勢吉氏だったが、家族全員が現場に立って必死な状態であり、新入りの彼に十分な給料を支払う余裕は蔵にはなかった。
「給料はほぼなかったんで、5万だったかな(笑)。3食ご飯はある、寝るところはあるけれど、お小遣い5万円みたいな状態。なんか僕は帰ってきていきなり、アルバイトでバーテンダーをやっていた近所のバーを貸していただいて、バーをやっていました。日中は酒造りをして、夜はバーに働きに行く。そういう時代でしたね。」
月給はわずか5万円。
それでも、蔵を必死に守る両親や姉に文句を言うことはできなかった。
親の酒造りへの姿勢をリスペクトしていたからこそ、伊勢吉氏はお小遣いのような給料に甘んじることなく、近所のバーでバーテンダーとしてアルバイトを始めた。自分で生計を立てる道を選んだのである。
日中は朝早くから蔵に入り、慣れない力仕事や瓶詰め、ラベル貼り、配達に追われる。
夜になると近所のバーに立ち、深夜まで働いた。
「結局5万しか貰わないから、親にも強く言えないんですよ。だから、まあ、蔵にいるけれどアルバイトみたいな感じだったかな。どうしても瓶詰めとか製造で人手が必要なとき以外、仕事としては配達くらいしかなかったんで、それ以外は自由にバーをやっていました。それが、ブームが加速していくにつれて、倍々ゲームみたいになっていくんです。」
加速する狂乱、そして家族の危機
最初は月に1,000本程度だった製造数量が、月に5,000本、1万本へと勢いよく増えていった。
宝酒造から受託製造していた『一刻者』の需要は、小牧醸造の供給能力を超える勢いで伸びていく。
「月に1,000本ぐらいだったのが、5,000本、1万本となって、最終的には月に10万本に。そういう倍々ゲームみたいな。いや、もう全然、レベルが違う。空前の焼酎ブームでしたからね。蔵元が居酒屋に行ったらもうサインを求められる、そんなレベルですよ(笑)。尋常じゃなかったね、あれは。メディアは毎月何かの雑誌が焼酎を全部取り上げてきて。2000年から2007年がピークでしたね。」
毎月のようにメディアが焼酎を取り上げ、小牧醸造の名も広く知られるようになっていった。地道に美味い酒を造り続けてきた伝統が、世間に認められた瞬間でもあった。その忙しさの最中、家を出ていた兄が蔵へと戻ってくる。
「兄貴が製造の終わる2月頃にフラッと帰ってくるんですよ。で、それを僕は家族のために呼び戻されて帰っているから、『え、なんでいんの?』と。そうなりますよね。昔はすっげえ仲が悪かった。母から『兄弟仲良くやって』と言われても、『俺の性格分かるでしょ、やれるわけないじゃん』ってバチバチでしたよ。そこから3年くらい、ブームのさ中はね。ただ、その間に母ががんになるんですよ。」
兄弟間で衝突が続くなか、社長を務めていた母親ががんに侵されていることが発覚した。
どれほど反発し合っていても、母親を支え、組織を回していくためには、兄弟で力を合わせるしか道はなかった。
宿命を受け入れ、背負う覚悟
小牧蒸溜所の歴史を遡れば、昭和48年に同じ年のうちに2度の水害に遭い、完全に水没して5年間の長期休業を余儀なくされた過去がある。
父親の友人が保証人になってくれたことで復活を遂げたものの、バブル期には親戚の連帯保証人になったことで、個人で数億円もの莫大な負債を背負い込んでいた。
「親戚の連帯保証人で2億くらいの個人借金を背負って、それでもう親父は社長ができなかった。そんな親父だった。昭和のドラマだからさ(笑)。いや、本当だよこれ、本当に。だからうちは宝酒造さんに助けられてね……」
経営の第一線を退いた父親に代わり、母親が蔵と家計を支えた。
昼は蔵を守り、夜はスナックを切り盛りする。幼少期の伊勢吉氏は、その店の片隅でひとり遊びをしながら、家族が必死に暮らしを支える姿を静かに見つめて育った。
やがて彼は、蔵と時代、その両方の真ん中に立つことになる。
蔵が背負ってきた幾度もの苦難。癌と闘いながらも蔵を守り続けようとした母親の姿。そして、本格焼酎ブームの到来によって、小牧醸造の焼酎が急激に求められるようになった時代の大きなうねり。
最初から覚悟があったわけではない。むしろ、蔵を継ぐつもりはなかった。
しかし、家族が懸命に守り続けてきた酒造りを目の前にして、その現実から目を背けることもできなかった。
日々の厳しい蔵仕事に向き合い、両親や兄姉が人生を懸けて守り抜いてきた本格焼酎という文化に触れ続けるなかで、彼の心には少しずつ変化が生まれていく。
この蔵を、自分たちが背負う。
苦難を乗り越えながら受け継がれてきた小牧醸造の暖簾を、今度は自分たちが守り抜く。その決意は、一瞬で生まれたものではない。
積み重ねられた年月と家族の歩み、そのすべてを受け止めた先で、後継者としての覚悟は静かに、しかし誰よりも強く固まっていったのである。

【編集部ノート】
偶然の重なりと家族の危機によって、突如として伝統ある蔵の命運を託されることとなった伊勢吉氏。
そこには、焼酎業界を取り巻く経済的背景や、数億円の負債、水害、家族経営の限界、母親の病、そして焼酎ブームという時代の波が複雑に絡み合っていた。
伊勢吉氏の口から語られる飾らない生の言葉は、短く削ぎ落とされたからこそ当時のリアルな空気をまっすぐに伝えてくれているように感じた。
幾度となく水害に遭いながらも折れなかった蔵の歴史、あるいは蔵に戻ったもののわずかな月給という現実のなかで、現場を回す両親や姉を支えるためにバーでの夜間アルバイトを掛け持ちしながらも、決して伝統への敬意を忘れず家業を支え続けた日々。
そこには、自らが育った小牧醸造の本格焼酎に対する深いリスペクトが確かに存在していた。
直面した現実から逃げずにそれを受け入れ、真の蔵人へと脱皮していった伊勢吉氏の姿には、一人の人間としての強い生き様と覚悟を感じる。
次回は、再び迫る絶望的な水害を経て、伊勢吉氏がどのようにして小牧蒸溜所を「焼酎を造る場所」から「誇りを生み出すブランド」へと変えていったのかを追っていく。
(第3回に続く)
文|山本龍成