掛け合わせが生み出す、静かな心地よさ
「うちは焼酎に料理をがっつり寄せるっていう意識、あんまりないかもしれないですね。どっちでも行けるというか、焼酎の方が懐は広いですから。」
カウンター越しにそう語る「nano」の店主・長野氏の言葉には、現代の飲食シーンでは、目立たなくなってしまったが私たち呑み手がもっておきたい、極めて本質的な「自由」が宿っている気がする。
現代のグルメカルチャーは、とても豊かになってきた。
星付きレストランからネオ居酒屋まで、多様な店が生まれ、メディアやSNSを通して、これまで知らなかった料理やお酒に出会える機会も増えた。
その一方で、情報が増えたからこそ、私たちはいつの間にか「正解」を探しながら食事をしたり、流れてくる情報に影響を受けながら店を選んだりしているのではないだろうか。
近年では、「この料理にはこのお酒を合わせる」というペアリング文化も広く浸透してきた。
お店が考え抜いた組み合わせを体験することは、料理やお酒の新しい魅力を知る大きなきっかけになる。
それは知識や文脈を楽しむ面白さがある一方で、ただ「美味しい」「心地いい」と感じる直感的な喜びが後回しにしてしまうこともある。
そう思うと、呑み手自身がその日の気分や感覚に合わせて自由に選べる余白もまた、食体験を豊かにする要素であったことに気がつく。
長野氏が作る「nano」という場所が魅力的なのは、知識やルールを否定するのではなく、その上で飲み手自身の感覚を大切にする余白が、常に残されているからだ。
お酒を飲む時間は、本来、自分自身が心地よくなるための時間でもあるからだ。
「生牡蠣にはシャブリ、という王道の組み合わせももちろん魅力的です。でも、それだけが答えではないと思うんです。イタリアンを食べに来たからといって、ワインだけが正解じゃない。焼酎が飲みたければ飲めばいいし、途中で気が変わってワインに戻ってもいい。2人で来て、それぞれが全くバラバラのものを飲んでいたって、何の問題もないんです。お酒の文化圏って、もっと広くて自由なはずなんですよ。」
長野氏の思想の根底にあるのは、「呑み手に選択肢があること」への静かで熱い思いであった。
料理がお酒の主人公になるわけでも、お酒が料理を支配するわけでもない。
お互いが共に最高の状態で存在しながら、飲み手のその日の気分やさじ加減によって、いかようにも出会い方を変えることのできる「余白」をあえて残しておくこと。
自身が作り手と呑み手、両者の視点を持ちながら追求した理想の形がそこには存在している。
日本には、別々の鍋で炊き上げた料理を最後にお皿の上で出会わせる「炊き合わせ」というそれぞれの良さを最大限に引き出し、一皿に合わせる素晴らしい食文化があるが、長野氏が提案する料理とお酒の関係は、まさにその感覚に近い。
1対1のガチガチのペアリングではなく、一歩引いたところでお互いを包み込むような、懐の深い「掛け合わせ」の思想が、この店の心地よさを形作っている。

自分自身の感覚を取り戻す
現代の消費者は、お店を選ぶ前にレビューやSNSを見ることが当たり前になった。
情報が豊かになったことで、新しい店や文化に出会える機会も増えた一方で、ときに自分自身の感覚より先に、他者の評価を基準にしてしまうこともある。そこには五感を使ったリアルな体験よりも、共有される情報や評価が先行してしまう場面も少なくない。
そうした飲食のあり方や、暗黙の了解になっているルールに対して、長野氏の空間はどこまでもフラットだ。
それを象徴するように、この日頼んだ最初の1杯目を前に、長野氏は悪戯っぽく微笑みながら1本のレトロなガラス瓶をカウンターに置いた。
「あ、そうだ。この焼酎にめちゃくちゃ合うと思って仕入れている特別なソーダがあるんです。よかったら、普通のソーダで割ったものと飲み比べてみませんか?」
差し出されたのは、大阪・能勢の豊かな自然が育んだ名水で作られる「能勢ソーダ」だった。
一般的に流通している強炭酸のペットボトルとは佇まいからして全く違う。
グラスに注がれると、きめ細やかで上質な泡がシュワシュワと美しく立ち上り、最高のキレを持って焼酎の香りを引き立てていく。ソーダの種類がひとつ変わるだけで、焼酎の繊細な輪郭や芋のふくよかな甘みの開き方が、ここまで劇的に変わるのか。
だが、それ以上に心地よかったのは、「これじゃないとダメ」という頑なな正解ではなく、「こんな風に、ソーダひとつ変えるだけでもお酒ってガラリと表情を変える。だから何でも試してみて、自分が面白い、美味しいと感じたものを信じればいい。」と、自分のガチガチに固まった感覚をやさしく緩めてもらったことだった。

長野氏は、仕込みの手を動かしながらこう言葉を続ける。
「お酒の知識や、正解の味を見つけるような飲み方だけでなく、『去年飲んだのより、なんだか今年のほうがダークな味がするな』とか、そのくらいの直感的な感想を言い合えるほうが、楽しい。だから僕は、お客さんがお酒を選ぶときも、テキストに書かれた情報だけで選ぶより、実際にボトルを見てもらったり、最初に香りを嗅いでもらったりして、ビジュアルや直感で選んでもらいたいんです。好きに楽しんでくれればいいなと思うんです。」
長野氏の料理にブレがないのは、イタリアンの現場を渡り歩き渋谷の「タロス」ではシェフを務めるにまで至った経験からだ。日本のイタリアン界を牽引した料理人の姿を間近で見つめ、また共に全線で走ってきた、確かな経験があるからだ。
多くの店が注目を集め、新しい価値観が次々と生まれていく飲食業界。
その変化を間近で見続けてきたからこそ、長野氏は、「ラフで、自由で、でもしっかり美味しい料理を届ける」という現在のスタイルに辿り着いた。
素材の味を最大限に生かし、尚且つ長野氏らしさがあしらわれた一皿。
三陸から直接届く魚を使い、カウンターに並ぶチャバタを自ら焼き上げる。
シンプルに見えて、手がかかっているからこそ一口目で「あ、美味しい」と直感的に伝わる料理の数々。
「美味しいお料理を、もうちょっとラフに、好きなように楽しんでもらいたい。ちゃんとイタリアンをやってきた人間が作った料理で、好きなお酒を飲んでもらいたいんです。」
お酒も主人公であり、料理もまた主人公。双方がしっかりと自立しているからこそ、この場所に訪れる人の記憶に深く刻まれる。

五感をひらく、これからの呑み場
長野氏がグラッパグラスに注いでくれたストレートの芋焼酎を口に含む。
一般的なロックグラスで無骨に飲むのとは違い、薄いガラスの縁を伝って、華やかな香りが驚くほどまろやかに脳を揺さぶる。
ワインでもない、日本酒でもない、既存のアルコール文化のどれとも交わらない独自の香気。
「焼酎や白酒って、開けてからも味が落ちにくいし、驚くほど懐が深いんです。イタリアンの油脂やスパイスの強い香りと合わせても、決して料理の邪魔をせず、一歩引いたところで包み込んでくれる。でも、フレンチやイタリアンではワインが中心になることが多いし、焼酎もまた、居酒屋や焼き鳥といった文化の中で親しまれてきました。でも、焼酎にはまだまだ面白い可能性があると思うんです。もっとラフに、もっと自由に、お酒を楽しめる余白をこの店で試していきたいんです。」
その言葉通り、長野氏が仕掛ける空間では、すべての調和が「五感」に直接訴えかけてくる。
耳に心地よく響く音楽、外から見ると何屋か分からないデザイン事務所としての佇まい、長野氏の技術と遊び心の詰まった一皿。
それらはすべて、それらは決して過剰に主張することなく、訪れた人が「ただ純粋に美味しく、気持ちいい状態」へと導くための、緻密な、しかし優しさに満ちた仕掛けなのだ。
お酒が飲める人も、飲めない人も。中国の白酒を初めて体験する若い学生も、仕事帰りにふらりと立ち寄って晩御飯を食べる近所の人も。
そこには、誰もが自分のさじ加減で、自分の「心地よさ」を選択し、その夜を満喫して幸せに帰路につく。
「美味しく、気持ちよければそれで良い。」
長野雄という料理人の佇まいから溢れ出るその哲学は、とてもシンプルだ。だからこそ、多くの人を惹きつける理由なのかもしれない。
情報やトレンドに触れる機会が増えた今だからこそ、誰かが決めた正解だけではなく、自分自身の感覚で選ぶ楽しさもまた、大切にしたい。
確かな背骨を持つ料理人がキッチンに立ち、お酒の、そして食の文化圏をそっと広げていく。私たちが失いかけていた「自由な呑み場」の豊かさが、この渋谷の一角で、静かに育まれている。

【編集後記】
ネットを使えば、簡単に誰かのおすすめのお店に出会える時代だ。
レビューやSNSのおかげで、私たちはこれまで知らなかった店や文化に触れられるようになった。その一方で、いつの間にか、自分の舌で味わう前にスマートフォンの画面を眺め、誰かの言葉を参考にしながら店を選ぶことも増えたように思う。
長野氏が守る「七一飯店」と「nano」の扉を叩いた夜、私たちは、自分自身の五感で味わうことの面白さを改めて思い出した。
流れる音楽に身を委ね、グラッパグラスから立ち上る焼酎の香りに鼻腔をくすぐられながら、自分のさじ加減で次の一杯を決める。
そこには、ただ純粋に「美味しく、気持ちいい」という、呑み場が本来持っている豊かさがあった。
誰かが決めた正解をなぞるのではなく、それぞれが好きなものを好きなように楽しむ。その違いを認め合える緩やかな空気が、この場所には流れている。
時代がどれだけ変わっても、自分自身の感覚を信じて楽しむこと。
長野氏が造るものは、その大切さを静かに思い出させてくれる場所なのかもしれない。
(完)
文責:山本龍成