「秘密の台所」のカウンターを支配しているのは、目に見えるレシピではない。その根底にあるのは、15年のキャリアで培ったプロフェッショナルな視点と、対極にある、衝動的でパーソナルな「好き」という感情の絶妙なバランスである。
後編では、店主の内面にある美学、そしてワインという巨大な潮流に対する彼の「誠実な向き合い方」を、1対話から紐解いていく。
開店を遅らせてまで会いに行った、造り手の「詩」
「ちょっと出したいもの出していいですか?」
店主がそう言って、三種類のグラスを並べた。注がれたのは、琥珀色に輝くジュラのワインだ。前回来店した際に「ジュラが好きだ」と漏らした一言を、彼は何気なく、しかし完璧に覚えていてくれたのだ。その心意気に胸を熱くしながら、ワインが馴染むのを待つ間、私たちは一つの問いを投げかけた。
「昨日、ワインの生産者さんに会いに行かれてましたか?」
店主はパッと顔を輝かせ、一冊の書籍を取り出した。
『Poetry Is Growing in Our Garden』
「そうなんですよ。お店の開店時間を遅らせて行ってきました。これ、この生産者なんですけど。昨日買ったTシャツ、この刺繍がワインのラベルになってるんです。アンダース・フレデリック・ステインっていう生産者で、これ全部、彼が考えた詩がワインの名前になっていて、そのエピソードが書いてある。まあ、ポエムですね(笑)。サインももらって、ちょっと話してきて」
以前から大切にしていた原著に加え、来週出る和訳本のイベントも心待ちにしているという。ソムリエという肩書きを脱ぎ捨て、一人の純粋なファンとして、自ら足を運び、憧れの造り手と直接言葉を交わす。その体温の宿った熱量こそが、彼の選ぶ一杯に、数字やデータでは測れない説得力を与えている。

「ストリートビューで畑を映す」同期との夜
今でこそナチュラルなワインをメインに据える彼だが、その原点は意外にも「がっつりクラシカルなボルドー」にあった。のめり込んだきっかけは、入社1年目に会社の寮で出会った、ある同期の存在だ。
「上の階に住んでた同期もワイン好きで。仕事終わりに1本ずつ買ってきて、どっちかの部屋で飲むんです。しかも、単に飲むんじゃない。『この地域のライバル生産者2つを買ってきて、どう違うか飲み比べよう』とか、コンセプトを決めてあーだこーだ言いながら。彼がいきなりパソコンでGoogleストリートビューを開いて、畑を映し出して、『このワインはこっち側で、こっち側がこのワインの畑だね』とか言い出すくらいマニアックな友人で」
そんな「オタク」とも言える同期との濃密な経験を経てきた彼だからこそ、昨今のナチュールワインの取り扱われ方には、一際厳しい視線を向ける。
ファッションへの「怒り」と、介入感なき美味しさ
「ナチュールという言葉が一人歩きして、どんなワインか理解しないまま雰囲気で扱う店が増えている。それがすごいダサくて嫌いなんですよ。音楽フェスだって、良いアーティストをかき集めたのに音響設備に疎いまま、なんとなく雰囲気で開催しちゃったら音割れしてせっかくの素敵な演奏も届かない。それと同じで、お店側がよくわかんないままワインの特徴を伝えずに出したり、状態もわからないまま出して『ナチュールは美味しくない』と思われてしまうのが、本当残念だなと思ってて」
彼は、ナチュラルワインから入った若いお客さんに、さりげなくクラシックなワインを出すことがある。 「私は、美味しければいいと思ってる。自分が飲んで美味しいと思ったものだけを取り扱う。これ実はナチュールではないですよ、と言って出した時に、『あ、先入感なしの方が美味しいんだな』って気づいてもらえるのが嬉しい。先入観なしで、飲むほどに『知らないことが多くなっていくこと』の楽しさを知ってほしいんです」
そんな彼が発信し、紡ぐ言葉には、着飾らない独特の体温と、プロとしての誠実さが同居している。
Instagram(@toukaseisei)等で見せる彼の言葉は、単なる「発信」を超え、一つの読み物として多くの読者を惹きつけている。
その「嘘のない言葉」に惹かれ、彼のカウンターには夜な夜なファンが集う。
彼らは単に食事をしに来るのではない。「台所さん」というフィルターを通した世界観を、その一部として味わいに来ているのだ。間借りという不安定な形態でありながら、どこの街へ行っても席が埋まり、予約が取れないほどに人が集まるのは、彼が紡ぐ言葉が、客との間に「美味しい」を共有する強固な信頼という名のコミュニティを築いているからに他ならない。

筆一本で描き出す「表現の自由」
ふと目に留まったカウンターの絵について尋ねてみた。「その絵は、どなたが書かれた作品なんですか?」 返ってきた答えは、いたずらな笑みと共に「私です!」という言葉だった。プロの作品かと思うほど、その空間に馴染み、独特の存在感を放っていたからだ。
「仕事終わりに帰って夜中に一気に集中して描き上げました。集中すると一気にやり切れる。そうじゃない時とのメリハリも自分の特徴ですね」
楽しげに笑う店主の空間には、今、「まあいっか人生」という名のBGMが流れている。 「間借りのデメリットは、自分の世界観を出しきれないこと。食材も毎回スーツケースで運び、保管できる量も限られる。だから今後はお店をやりたい。仕事終わりに優しいワインと優しい食事で癒やされる、そんな究極の『秘密の台所』を作りたいんです」
彼が作り上げる城は一体どのような空間になるのだろうか。
そこで自ら選び抜いた言葉とワインで客を迎える。
それが、彼が着実に行動して引き寄せている未来である。

編集後記:bacchanteが見た「秘密」の正体
店主・台所さんとの対話を通じて見えてきたのは、15年の会社員生活で培った「戦略」と、学生時代から一貫して変わらない「偏愛的な好き」が、奇跡的なバランスで同居している姿だった。
「秘密の台所」の秘密とは、場所が秘密であることだけではないと感じた。それは、一人の人間が、組織の論理からも、流行の呪縛からも解き放たれ、ただ自らの「感性」という一点にのみ忠実であろうとする、その静かな「企み」そのものだったのである。
「秘密の台所の細部には店主の心が宿る。 ワインを注ぐ彼の顔は誰よりも楽しそうであり、それを見ながら私たちはどんな言葉と共にワインが出てくるのかを心待ちにしている。 そんな時間を過ごしているうちに気がつけば私たちもファンになっていた。 これからも彼の活動をbacchanteでは追っていく」