nano 第1回|看板のない異質空間に、二つの夜が迷い込む。

渋谷の境界線で、料理人・長野雄が仕掛ける「選択肢」という名の自由形

渋谷駅から明治通りを南へ歩いて約10分。大通りの喧騒から少し外れた小道に、その店はある。ガラス張りのスタイリッシュな佇まい。しかし、外から覗き込んでも、そこが何を生業としている場所なのかは一見して判然としない。

インテリアショップなのか、デザイン事務所なのか、あるいは飲食店なのか。外から見ていると何屋かわからないため、最初は誰もが入りにくさを覚えるという。そこは、曜日によって表情をガラリと変える二面性を持った空間だ。

金曜日から月曜日までは、中国の蒸留酒である白酒(バイチュー)と創作台湾料理を提供する『七一飯店(なないちはんてん)』。そして火曜日と水曜日の夜になると、本格焼酎とイタリアンをテーマに据えた『nano(ナノ)』へと変貌を遂げる。

一つの空間、一人の料理人、しかし全く異なる二つの夜。今回は、一店舗一業態という固定の枠組みに縛られず、現代における「料理人の新しい生き方」と「呑み手への選択肢」を提示し続ける店主・長野雄(ながの・ゆう)氏(以下、長野氏)の根底にある哲学を紐解いていく。

金曜日から月曜日営業の「七一飯店」
火曜日と水曜日の夜営業の「nano」

飲食店ぽくない、クリエイティブな書斎に紛れ込んだような心地よさ

一歩足を踏み入れ、誰もがまず驚き、目を奪われる光景がある。コンクリートの壁に、まるでアートピースのように整然とかけられた、たくさんの椅子の群れだ。床ではなく、壁に吊るされた椅子たち。それは一般的な「居酒屋」や「イタリアン」のイメージからは程遠く、まるでどこかクリエイティブな書斎に紛れ込んだかのような、知的で静かな興奮を覚えさせる。

これらの椅子や店内の照明は、すべてオーナー自身がデザインしたものだ。この場所はもともと、飲食店を中心に内装や空間のデザインを手がけるクリエイティブ会社のショールーム兼事務所として作られた。

長野氏にとって、飲食の実現場を回す側ではなく、その「側(がわ)」を作る人間との出会いは新鮮なものだった。この事務所にキッチン機能を増設したことから空間の歴史が動き出す。最初は週に1回、お昼のテイクアウト限定のルーロー飯屋としてスタートし、そこから徐々に夜の営業や曜日を増やしていった。かつては、違う曜日にお弁当屋さんが入ったり、知り合いのカレー屋さんが営業したりと、不思議な交錯地点の様相を呈していたという。

デザイナーの手によって美しくまとめられながらも、どこか飲食店としての枠組みを逸脱している空気感。外から見ると何屋かわからないが、中に入ると壁の椅子や照明、流れる音楽が不思議な調和を保っている。この「良い意味での違和感」こそが、訪れる人々の心を強固に惹きつける独特の居心地の良さを生み出している。

「七一飯店」が日常に持ち込んだ、白酒(バイチュー)サワーという企み

『七一飯店』のコンセプトの根本にあるのは、オーナー自身が現地で心惹かれたものを日本で展開し、みんなに楽しんでもらうという極めて純粋な衝動だ。

看板メニューである「魯肉飯(ルーローハン)」は、オーナーが現地で食べた味をベースに、よりカジュアルに、好みの味へとカスタマイズしてレシピ開発されたもの。そして、『七一飯店』を唯一無二の存在にしているのが、カウンターの棚にズラリと並ぶ中国の蒸留酒「白酒(バイチュー)」の存在である。オーナーが中国へ頻繁に行っていた時期にその美味しさに魅了され、「日本でもやりたい」と考えたのが始まりだ。

しかし、中国ではメジャーな蒸留酒である白酒も、日本ではまだまだ認知度が低い。本場のようにストレートで出すだけでは、どうしても頼むのに抵抗を感じてしまう人も多いのが実情だ。

​そこでオーナーが「もっとカジュアルに白酒を楽しんでもらいたい」と提案したのが、白酒をベースにしたオリジナルの「白酒サワー」という選択肢だった。

​そのアイデアのバトンを受け取り、長野氏が厨房で試行錯誤を重ねながら、日本人の舌にも馴染む豊かなレシピを生み出していった。現在、七一飯店では、自家製レモネードと合わせた爽やかなスカッシュや、仕込みにスパイスを織り交ぜたクラフトコーラ割りなど、バリエーション豊かな「白酒サワー」を楽しむことができる。

定番サワーに使っているのは、一番癖がなくてベースにぴったりハマった『江小白(ジャンシャオバイ)』という銘柄。お酒が好きなお客さんに「ベースの白酒を変えると、また香りが変わって面白い」と提案すると、多くの人が興味を持ってくれる。白酒に馴染みのない人や知らない人のほうが、意外とすんなり飲めたりするのも面白い特徴だ。現在では、白酒×○○で複数の白酒サワーを提供している。

本場の中華料理店や高級店でしかお目にかかれなかった白酒を、馴染みのあるサワーで、ラム焼きそばや卵焼きといった創作料理と合わせる。格式高い中国酒の文化を、渋谷のストリートの空気感へと軽やかに引き摺り下ろしながらも、白酒や台湾料理の良さを残す。それこそが『七一飯店』が若い世代から近所の仕事帰りの人々までを虜にしている理由だ。

魯肉飯×魯蛋
白酒×コーラ(七一飯店オリジナル)

固定店舗を持たない理由―料理人の生存戦略

長野氏は、青山、代官山、五反田の名店でキャリアを積み、渋谷の有名イタリアン「タロス」ではシェフを任されるほど、生粋の現場叩き上げの料理人だ。そんな確かな実力を持つ彼が、なぜ自分の「城(実店舗)」を構えず、この場所での営業や間借りというスタイルを選び続けているのだろうか。

そこには、現代の飲食業界における生き方に対する、極めてクールで現実的な視点があった。

実店舗を持つことへの疑問は常に考えていたと長野氏は明かす。38歳という自身の年齢を見つめ、料理人として体力を維持して第一線で頑張れる期間を現実的に逆算したとき、「借金をして自分の実店舗を出し、人を雇う」という、既存の料理人の独立ルートしかないのだろうかと、漠然と疑問を抱いていた。

さらに、スタッフが成長すれば独立し、そのたびにまた新しく人を雇うサイクルを繰り返す「人の問題」の大変さもある。それならば、間借りで小さく始めて、状況を見ながら次の展開に進めればいい。飲食一本にすべてを委ねるのではなく、様々なことに並行してチャレンジできる柔軟な形を模索した結果が、現在のスタイルに繋がっている。

一般的なレストランに比べたら、使えるキッチン設備やスペースには明確な制限がある。だからこそ「あるもので工夫する」精神で、長野氏は常に脳みその切り替えを楽しんでいる。既存の「正解」とされる成功ルートを疑い、自由な働き方をデザインする長野氏の佇まいに、しなやかな強さが宿っている。

「正解」を押し付けない、呑み手のための選択肢

週4日の『七一飯店』を回しながら、週2日の火曜日と水曜日には自身のオリジナル業態『nano』として、焼酎とイタリアンの世界を表現する。イタリアンレストランで10年以上クラシックなワインの文化に浸ってきた長野氏が、本格焼酎を選び、白酒と焼酎という二つの蒸留酒を同じカウンターで扱い続けるのには、一貫したテーマがある。

イタリアンに行ったらお酒の選択肢は基本的にワインしかないが、呑み手には「今日はワインの気分じゃない」という夜もある。選択肢が限定されてしまう状況に一石を投じ、途中でワインから焼酎に変えたり、二人で来てバラバラのものを呑んだりできる、居酒屋感覚のラフさを大切にしたいという。特定の料理に特定のお酒を固定する「正解」を押し付けるのではなく、呑み手に自由な選択肢を渡すことこそが、長野氏の目指す場所だ。

『七一飯店』で白酒サワーの文化に触れた客が平日の『nano』で焼酎のディープな魅力に気づくこともあれば、その逆もある。つくる料理や扱うお酒の幅が広ければ広いほど自分の中での応用が効き、伝え方の幅はぐんと広がっていく。

渋谷の境界線にひっそりと佇む、何屋か分からないガラス張りの空間。そこは、凝り固まった飲食業界のルールから脱却し、料理人自身の生き方と、呑み手の気まぐれな夜の気分をどこまでも全肯定してくれる、圧倒的に自由な「選択肢」の聖地なのだ。

【編集部ノート】

元々は、編集長のなかむらが「どうしても行きたい」とずっと気になっていた店、それが長野氏の『nano』だった。「イタリアンと本格焼酎を合わせる、面白い店があるらしい」。その噂を確かめるべく、まずは週末、白酒のリサーチも兼ねて『七一飯店』の夜を普通に訪れたのが、すべての始まりだ。

入り口は、未知の蒸留酒である「白酒」への好奇心だった。しかし、クリエイティブな書斎を思わせるその空間で、白酒サワーを片手に長野氏の言葉に耳を傾けるうちに、私たちは彼という料理人の底知れない哲学に引き込まれていった。既存の独立ルートを疑うクールな生存戦略、そして客に「正解」を押し付けず、その日の気分の自由を全肯定しようとする優しさ。

一杯の白酒サワーから始まった迷い込みは、早くも、二度と抜け出せないディープな夜の予感を孕んでいる。

(第2回に続く)

文責:山本龍成

この記事を書いた人

bacchante編集部