イタリアンをやってきた人間が出す「焼酎」の余韻
金曜日から月曜日まで、中国の蒸留酒である白酒(バイチュー)と創作台湾料理で賑わいを見せる渋谷の空間は、火曜日と水曜日の夜になるとその表情をガラリと変える。
ガラス張りの店舗に掲げられるのは、店主・長野雄(ながの・ゆう)氏の個人名義の看板『nano(ナノ)』。カウンターに並ぶのは、昨夜までの異国情緒あふれる白酒のボトルではなく、日本各地の蔵元から厳選された本格焼酎のボトルたちだ。
長野氏は、青山や代官山のリストランテ、五反田のトラットリア、渋谷のイタリアン「タロス」でシェフを務めるなど、10年以上にわたってフレンチ・イタリアンの第一線でキャリアを積んできた純粋な料理人である。そんなクラシックなワイン文化の王道を歩んできた人間が、なぜ自身の名前を冠した大切な場所で、ワインではなく「焼酎」を相棒に選んだのか。
そこには、確かな技術を持つ料理人だからこそ気づくことができた、本格焼酎というお酒が持つ圧倒的な「自由さ」と、もっとラフに自由にお酒を楽しんでほしいという呑み手への想いがあった。
「こんなんだっけ?」あの日、ソーダ割りがもたらした衝撃
今でこそカウンターに20銘柄近くの本格焼酎をずらりと並べる長野氏だが、かつては自分から進んで焼酎を選ぶような呑み手ではなかったという。出されれば飲むものの、好んで進むお酒ではない――そんなイメージを覆したのが、ここ10年ほどの間で日本の本格焼酎が遂げてきた劇的な進化、そしてある日飲んだ一杯のソーダ割りだった。
「ある時、焼酎をソーダ割りで飲ませてもらう機会があったんです。その瞬間に『あれ、焼酎ってこんなにおいしかったっけ?』って、良い意味でこれまでのイメージをひっくり返されるような衝撃を受けて。それがきっかけで、一気に焼酎の世界に引き込まれていきました。」
本格的に焼酎を深掘りしていく中で、長野氏はこれまで自身が身を置いてきた「イタリアンとワイン」という美しくも厳格な世界を、料理人として、また一人の飲み手としての視線で見つめ直すようになる。
イタリアンレストランへ行けば、お酒の選択肢はほぼワイン一択になる。それ自体は素晴らしい文化であり、長野氏自身もワインを深く愛している。しかし同時に、型通りのルールに縛られて選択肢が狭まってしまう側面があることも事実だ。呑み手の心理として、環境や体調、その日の気分によっては「どうしても今日はワインの気分じゃない。」という夜だって確実に存在する。
そんなとき、焼酎という選択肢は圧倒的に自由だ。ロック、ソーダ割り、お湯割り、水割り。ほんの少し呑み方を変えるだけで、どんな料理にもすんなりと馴染んでいく。それは「この料理にはこのお酒が正解」と選択肢を一つに絞って押し付けるようなペアリングとは真逆のスタンスだ。良い意味で料理と一歩距離を置き、呑み手の気まぐれな気分をも優しく包み込んでくれる絶妙な余白。それこそが、長野氏がイタリアンに焼酎を合わせようと決意した原点だった。

絶大な信頼を置く三陸の幸、引いて際立たせる「引き算」の調理
『nano』で提供されるのは、長野氏が長年培ってきた確固たる技術に裏打ちされた小皿イタリアンだ。一応、定番のグランドメニューも用意されているが、今では訪れる常連客の多くが、その季節限りの食材で仕込まれた「シーズナルメニュー」を楽しみに暖簾をくぐる。席に座るなり「今日はお任せで、何か適当に出して」と言って、お酒も料理もすべて長野氏の感覚に委ねる人も少なくない。信頼関係で成り立つ、呑み屋として最も理想的な風景がそこにはある。
その料理のクオリティを陰で支えているのが、長野氏自身のバックボーンと、故郷の食材への絶大な信頼だ。
魚の仕入れの9割以上を占めるのは、長野氏の地元の友達であり、岩手・三陸で仲買人をやっている人物から直接送られてくるもの。お互いの顔が分かっていて信頼できる相手から仕入れることに勝るルートはない、と長野氏は言う。
さらに、空間に足を踏み入れた瞬間に優しく鼻腔をくすぐる、焼き立ての香ばしい匂いも『nano』のキャラクターを雄弁に物語っている。ここ数ヶ月、お店でパンを焼くのが面白くなったという長野氏。イタリアンをやる上で、美味しいパンを自分で出せる楽しさを実感している。
カウンターに置かれたパンは、デザイナーのオーナーが手がけた美しい空間によく映える。自家製のチャバッタをちぎり、サルデーニャ産のオリーブオイルを少しだけつけて口に運ぶ。シンプルだからこそ、素材の質と調理の正確さがダイレクトに伝わる。素材の持っている味を何よりも大切にする、クラシックなイタリアンの下地がすべての皿の根底にあるのだ。
間借りならではの限られたキッチン設備の中でも、長野氏の脳みその切り替えは鮮やかだ。「あるもので工夫する」精神で、食材を無駄なく使い切る調理法を組み合わせながら、彼はこの環境でのオペレーションをむしろ楽しんでいる。料理をまず考えてから焼酎を合わせるのか、それとも焼酎から逆算して料理を作るのか、という問いに対して、長野氏は首を振る。
「普段はこれとこれを絶対に合わせよう、という細かい計算はしていません。イタリアンとして美味しいお料理を作れば、焼酎の側が意外と受け入れてくれる。お酒が好きなお客さんに『どれが合いますか?』って聞かれたら、最初にボトルをいくつか出して香りを嗅いでもらって、『これ美味しいですよ!合いますよ』って提案しながら、一緒に決めるのが楽しいんですよね。」

日本の調味料と北イタリアの伝統が織りなす「掛け合わせ」
『nano』のカウンターで繰り広げられるのは、「ペアリング」という堅苦しい言葉よりも、実にラフでエキサイティングな「掛け合わせ」の連続だ。
料理の幕開けを飾るのは、「三陸のタコと枝豆とオレンジパセリのソース」。プリッとしたタコの鮮烈な旨味に、パセリの爽やかな苦味とオレンジの立体的な酸味が重なる。
続く「あじのアグロドルチェ バルサミコと梅干し」は、長野氏の真骨頂とも言える和洋の境界線を溶かす一皿だ。イタリア伝統の甘酸っぱい南蛮漬け(アグロドルチェ)の技法をベースにしながら、バルサミコだけでなく、日本の「梅干し」を大胆に組み合わせている。
「日本の『イワシの梅煮』から着想を得て作ったんです。青魚の脂や特有の香りをバルサミコのコクで引き締めつつ、梅干しのキュッとした酸味を忍ばせることで、どこか親しみやすく、それでいて完全に新しいイタリアンになる。これが、焼酎の持つすっきりとしたキレや、フルーティーな香りと合わさると、たまらなく美味しいんですよ。」
さらに、温かい皿へと進むにつれ、掛け合わせは深みを増していく。「トリッパとギアラのあったかいサラダ」は、余計なハーブをあえて入れず、ホルモン本来の力強い風味と融点の高い独特の脂の旨味をストレートに引き出した一皿。ここに長野氏が合わせたのは、宮崎・松露酒造の『松露 Colorful(カラフル)』のソーダ割りだ。
「玉茜(タマアカネ)で仕込んだ新酒と、宮崎紅の3年古酒をブレンドした芋焼酎なんですけど、マンゴーやアールグレイを思わせる華やかな果実味がダイレクトに鼻に抜けるんです。内臓系の濃厚な脂や風味に、焼酎の持つフレッシュな香りのダブルパンチがありながら、ソーダの泡が後味を驚くほどすっきり綺麗に流してくれる。これが本当に気持ちよくて、お酒がどんどん進むんですよね。」
また、しっかりとした芋の旨味がある大和桜酒造のような本格芋焼酎を合わせると、また違った景色が広がる。ダイレクトな糖分を感じさせるのではなくて、一口飲んだ後に少し遠回りをしてから落ちてくるような深い甘みと余韻が、ホルモンの脂と混ざり合うことで心地よい呑み口を演出する。
サクサクの衣をまとった「三陸の穴子のカツレツ トマトと山椒のソース」には、米焼酎のお湯割りがお誂え向きだ。チェリートマトのフレッシュな酸味と、日本の伝統スパイスである「山椒」のピリッとした青い香り。ここに、純米酒のようなふくよかな甘みと厚みを持つ米焼酎のお湯割りを丁寧に合わせると、衣の香ばしさ、トマトの酸味、山椒の風味が温かさの中で完璧に調和する。
メインの「羊(ラム)のロースト」には、北イタリアでよく作られる、少しスパイシーに仕上げられた特製のリンゴジャムが添えられている。ジューシーに焼き上げられた肉の旨味とジャムのエキゾチックな辛み、そこへ形成される香ばしさ。そして、締めに出される「海老とズッキーニのパスタ」の濃厚なエビの甲殻類の旨味。そのすべてを、焼酎はときに引き立て、ときにさっぱりと洗い流しながら、見事に受け止めていく。


グラッパグラスで開く、夜の終わりの贅沢な余韻
nano の体験において、最もエキサイティングであり、長野氏の真骨頂とも言えるのが、デザートと本格焼酎の掛け合わせである。イタリアンのディナーの締めくくりとして、彼がカウンターに差し出すのは、ロックグラスではなく、華奢な首を持つ美しい「グラッパグラス」だ。
「イタリアンの食後酒といえば、ぶどうの搾りかすから作られる蒸留酒、グラッパが定番です。でも、度数が高くて香りが強い蒸留酒という点では、日本の本格焼酎も全く同じポテンシャルを持っている。だからうちでは、食後酒としても焼酎を楽しんでもらえるように、グラッパ用のグラスにストレートで注いでお出ししています。これが、うち特製のデザートと合わせると、本当に化けるんですよ」
長野氏が用意してくれたのは、ビターでこっくりとした「チョコレートのテリーヌ」と、オレンジジャムとキャラメルを絡めた胡桃を凍らせたイタリアの伝統菓子「アイスケーキ(セミフレッド)」。ここに、対照的なキャラクターを持つ2つの芋焼酎がストレートで注がれる。
1つは、宮崎の黒木本店が手がける『謳歌(おうか)』。オレンジのような鮮やかな柑橘香と、キャラメルを思わせるほろ苦さを併せ持つ、洗練された芋焼酎だ。このグラスを傾け、チョコレートのテリーヌを一口含む。
「『謳歌』の持つ柑橘の香りとビターなフレーバーが、チョコレートの甘みと口の中で交わると、まるで高級な『オランジェット(オレンジのチョコレート菓子)』を食べているかのような、フルーティーで立体的な味わいに変化するんです。お酒の香りとデザートの甘みが、お互いを引き立て合いながら、一つの新しいお菓子を口の中で完成させるようなイメージですね。」
そしてもう1つ、長野氏が自信を持って差し出すのが、鹿児島の大和桜酒造が作る『大和桜 匠(たくみ)』、あるいは蒸留の過程で通常は使われない「末だれ」をあえてブレンドして作られた、多層的な焦がしキャラメルのような香気を持つ希少な焼酎だ。
長野氏はストレートの魅力をこう結ぶ。
「グラッパグラスで飲むストレートって、ツンとしたきつさがなくて驚くほどまろやかなんですよ。チョコレートのビターなコクに、お芋の甘みが乗っかることで、ものすごく大人なフレーバーになる。デザートを食べた後の一口は、また香りの感じ方が違います。焼酎ストレートならではの面白さですね。」
グラッパグラスの細い首から立ち上る、柔らかくどこか妖艶な本格焼酎の香り。前菜のタコやアジから、ホルモン、カツレツ、羊のロースト、濃厚なパスタ、 avenues そして最後のデザートに至るまで、すべてのシーンの主役を張りながら、呑み手の気分に寄り添い続ける。もちろんワインを飲んでもよいし、好きに自由になれる。固定概念から解き放たれた場所。長野雄が仕掛ける『nano』の夜は、本格焼酎というお酒が秘めていた、まだ見ぬ美しさと底知れないポテンシャルを、私たちの五感にまざまざと見せつけてくれるのだ。

【編集部ノート】
タコ、アジ、穴子、羊、そして海老のパスタ。
長野氏の鮮烈なイタリアンを味わいながらグラッパグラスの焼酎を喉に流したあの夜、私たちはただ「美味しくて気持ちいい」という純粋な心地よさに満たされていた。世の中に数あるペアリングの「正解」を知識としてなぞるのではなく、お互いが自立した主人公として皿とグラスに存在し、呑み手の気分に合わせて自由に溶け合っていく楽しさ。ワインのルールに縛られず、焼酎のイメージを軽やかに飛び越えていく『nano』の掛け合わせ。この圧倒的な自由さと楽しさを一度知ってしまったら、いつもの見慣れたはずの夜が、驚くほど新しく、愛おしいものに変わっていく。
(第3回に続く)
文責:山本龍成