街に傷ついたのに、また一杯に反応してしまった
八王子ナポリタンで、僕は一度だけ、街が動く瞬間を見ました。
「八王子を、ナポリタン日本一の街にする」
少し馬鹿げた言葉でしたが、その言葉が店を巻き込み、取材を呼び、誰かの昼ごはんになっていった…
食の名前が、街の見え方を変えることがある!
僕は八王子で、その手触りを知りましたが、その名前を守ることはできませんでした…
商標の問題によって、自分が育ててきた名前が、自分の手を離れていくような感覚を味わいました。
今ならわかります…
名前が広がるなら、誰がどう管理するのか…
どこまでを共有し、どこからを守るのか…
最初に決めておくべきことがありました。
でも当時の僕は、そういう話をどこか冷たいことのように感じていました。
街のためにやっているのだから、大丈夫だろう…
みんなで盛り上げているのだから、悪いようにはならないだろう…
そう信じていたというより、そう信じたかったのだと思います。
「稲城消防団カレー」とは。
一度折れたあと、僕はもう一度だけ、別の街で食の企画に手を伸ばしました…
それが、「稲城消防団カレー」でした。
稲城消防団カレーを考えた理由は、ただ「消防団」という言葉が面白かったからではありません。
稲城市には、東京の中では少し珍しい消防の背景があります。
多くの市町村が東京消防庁に消防事務を委託している中で、稲城市は自前の消防体制を持っている街です。
つまり、消防がその街の中に、かなり近い距離で根づいている。
そこに、僕はひっかかりました。
観光名所のように派手ではないけれど、街の安全や暮らしを支えている存在。普段はあまり意識されないけれど、いざという時には街を守る人たち。
その“稲城らしさ”を、食の入口から面白く伝えられないかと思ったのです。
そこで考えたのが、稲城消防団カレーでした。
少しくだらない言葉から、街の話を始める
稲城消防団カレーのメイン食材は「大根」
大根には、消化を助けると言われる酵素がある→消化を助ける→消化→消火→消火を助ける…
だから、消防団カレー!
……かなり無理があります。
でも、こういう少しくだらない言葉の飛躍が、僕は嫌いではありません。「なんで消防団でカレーなの?」
「大根が入っているの?」
「消化と消火をかけてるの?」
そんな会話が生まれたら、そこから稲城の消防の話に入れる!
普段は少し遠くに感じる消防という存在も、カレーという一皿を通すと、少しだけ近くなる。
僕には、それが面白く見えました…
八王子での失敗があったので、今度は同じことを繰り返したくありません…
民間だけで勢いよく走るのではなく、最初から地域の人や行政にも相談しながら、丁寧に進めよう!
ちゃんと手順を踏んで、ちゃんと共有して、ちゃんと守れる形にしよう…
そう思って、稲城消防団カレーの話を行政側にも持っていきました…
けれど、そこで返ってきたのは、とても現実的な反応でした。
「面白いとは思います。けれど、前例がありません」
「まだ活動実績がないので、まずは民間でやってみてください」
強く否定されたわけではありませんし、誰かが意地悪をしたわけでもありません…
ただ、行政には行政の順番があって、まだ火がついていない企画に、最初から大きく乗ることは難しい…
どれだけ地域のためになる可能性があっても、実績がなければ慎重にならざるを得ない…
そのことは、頭では理解できましたが、僕にとっては、やはり苦い現実でした…
八王子では、民間で走りすぎて、広がった名前を守れなかった。
稲城では、同じ失敗をしないように丁寧に進めようとしたら、今度は始まる前に足が止まってしまった。
民間だけで突っ走ると危うい…
でも、最初から行政に預けようとすると、企画は動き出す前に重くなることがある…
では、どうすればいいのか?
その問いに、僕はすぐには答えを出せませんでした。
もう地域企画なんて、やめておけばいい…
街を変えるとか、カルチャーをつくるとか、そんなことを言うから傷つくのだ…
そう思った時期もあります!
でも、街を歩いていると、結局また考えてしまうのです。
この店に、人が集まる理由をつくれないだろうか?
この街に、まだ知られていない面白さがあるんじゃないか?
食や酒を入口にすれば、もう一度、誰かの足を止められるんじゃないか?
自分でも、懲りないなと思います。

ただの一杯が、また自分を動かした
そんな頃に出会ったのが、クラフト焼酎でした。
最初から「これは企画になる」と思ったわけではありません。
むしろ最初は、ただの一杯でした。
三軒茶屋に、名前からして少し無骨な店があります。
「五臓六腑」
きれいに整えられた夜というより、人の体温や酒場の匂いが、そのまま残っているような場所です。
ある夜、そのカウンターで、知らない蔵の焼酎をすすめられました。
正直、ラベルを見ただけでは、何がすごいのか分かりませんでした…
焼酎に詳しくない人なら、たぶんそのまま通り過ぎてしまう。
でも、店の人が一言添えたのです。
「この蔵、面白いんですよ…」
そこから、蔵の場所や、造り手の話や、どう飲むと表情が変わるのかを、少しだけ聞きました。
すると、グラスの中身が変わって見えてきて、ただの知らない酒ではなく、遠くの土地から三軒茶屋の夜まで届いてきたものに見えたのです…
僕が反応したのは、味だけではありませんでした。
これは、まだ多くの人に見つかっていない…
でも、言葉を添えて手渡せば、きっと誰かの夜に残る。
そう思ってしまったのです。
クラフト焼酎には、まだ見つかっていない余白がありました。
これだけ面白いのに、まだ多くの人の夜の選択肢に入っていない。
詳しい人だけの酒のように思われ、最初の一杯に選ばれる前に、そっと外されてしまう。
それが、ものすごくもったいなく見えました。
八王子ナポリタンは、食の名前が街の入口になることを教えてくれました。
稲城消防団カレーは、言葉の面白さだけでは企画が動き出さないことを教えてくれました。
そしてクラフト焼酎は、言葉ひとつで、一杯の見え方が変わることを教えてくれました。
もう地域企画なんてやめておけばいい。
そう思ったはずなのに、三軒茶屋のカウンターで知らない焼酎を飲んだ夜、僕はまた余計なことを考えていました。
この一杯を、もう少し面白く渡せないだろうか?
この蔵の話を、誰かの夜に残せないだろうか?
焼酎という言葉の向こうにある面白さを、もっと街の中で開けないだろうか?
懲りていない…
たぶん、まったく懲りていないのです…
その先に、三軒酎屋という名前が生まれることになります。
でも、その話は次回に書きます。

【三軒酎屋の中の人note】
毎週土曜日更新
女性の1人飲みの参考書?
倉嶋紀和子(くらしま きわこ)
日本の雑誌編集長、エッセイスト、タレント
大衆酒場文化の第一人者として多方面で活躍
・肩書:『古典酒場』創刊編集長
・称号:酒サムライ(2022年叙任)
・愛称:酔女(吉田類さん命名の俳号)
・雑誌創刊:2007年に居酒屋特化誌『古典酒場』を創刊
・TV出演:『二軒目どうする?』『にっぽん酒処めぐり』など

