ボトルキープという文化に、昔から妙な憧れがあった。
学生時代に酒場でアルバイトをしていた頃、常連さんから「俺のボトル持ってきて」と頼まれることがあった。ところが私は、その人の名前がどうしても思い出せない。
困り果てて店長に助けを求めると、「ああ、あの人ね」と当たり前のように棚から焼酎を取り出してくる。その光景が、なんだか羨ましかった。
だから、人生で一度くらいは自分の名前が書かれたボトルを棚に並べてみたかった。
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「こんばんは〜」と言いながら、カウンターの端へ滑り込む。
いつも通りに暖簾をくぐった馴染みの店だが、この日の私は少し緊張していた。人生ではじめて、ボトルをキープすると密かに決めていたからだ。
おしぼりで手を拭いていると、ちょうど隣の席の品のいい老夫婦らしき男女が会計を済ませて席を立った。カランカランと戸が閉まると同時に、店主がトントントンとまな板を叩く手を止め、包丁を持ったまま小声でぼそっと呟く。
「さっきのお客さんさ、まだ続いてるよ。あの、怪しい二人」
「え、まだ!?」
思わず吹き出しそうになり、ちょうど到着したビールをぐっと飲み込む。店主は満足そうににやついている。
そんな下世話な話をツマミにしていると、「おかわりちゃん、これ好きでしょ」と言いながら、メニューにもない海鮮ユッケの温玉乗せが目の前に置かれた。
そんなどこか、私をよく知っているかのような店の雰囲気の中、おしぼりをころころしながら、意を決して切り出す。
「黒霧島、ボトルでお願いします」
「え、ボトルキープするの?」
にやつきながら、慣れた手つきで黒霧島とポスカを渡される。
うーん。いざとなると、ボトルに何を書くか妙に迷う。とりあえず名前を書こうと、ポスカをカチカチと上下に振る。そのとき、ふと思った。これって契約書にサインするみたいだな、と。
大袈裟な言い方だけれど、自分と店との関係性を買う、契約書のようなものだ。この店にお酒を置いて、ここに私の場所を少しください。私はこの店に通います、と。
「めでたい私の初ボトルキープなんで、何か書いてください」
そんな無茶振りをして、半ば強引に店主にも瓶へ文字を書いてもらう。これで双方の署名捺印がされた(されていない)立派な契約書になった。
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ここまで読んでくださった方は、やたら店主と仲良いなと思われたかもしれない。こいつらデキてるんじゃないかと。
何を隠そうこの酒場は、私が学生時代に三年半ほどアルバイトをしていた店だ。無論、店長とデキていない。
そりゃあ、当時あんなに賄いを食べていたら食の好みも知られているし、三年半も働いていれば常連さんの怪しい関係も知っている。私もどこか少しだけ我が物顔で、お尻のポジションを探すこともなく、どっしりとカウンターの席へ腰掛けている。
「東京疲れちゃった?いつでも帰っておいで〜。胸を貸す準備はしているからね」店長は、そんなセクハラ発言を平気でかましてくる。
今ごろ、あの黒霧島はどうなっているだろうか。
とっくにキープ期限なんて切れているはずの年月が経っている。
「おかわりちゃん、全然帰ってこないから期限切れで捨てちゃったよ〜」と、あっけらかんと言う、店長の顔が容易に浮かぶ。
捨てられていても驚かない。意外としぶとく棚の奥に残っているかもしれない。どちらでもいい。ボトルより先に、あの店も店長も残っている。
捨てられていたら、また新しい契約書にサインをすればいい。
とりあえず、お盆の帰省にでも黒霧島の生存確認をしに行こうかな。
