【STORY第1弾】いつから私たちは、焼酎を割って楽しむようになったのだろう|1本の割り材『ハイサワー』の誕生と、酒場に広がるまで

居酒屋でサワーを頼むことは、いまでは珍しくない。焼酎を炭酸や果汁で割り、好みの濃さで飲む。
それは現在の酒場でごく普通に見られる光景だ。

では、いまでは当たり前になった『焼酎を割って楽しむ』という酒場の風景は、どのように広がっていったのだろう。
その一端を担ってきたのが、東京・目黒で生まれた割り材「ハイサワー」だ。

酒場で博水社の「ハイサワー」を楽しんでいる人を見つけると、自らその人のもとへ歩み寄り、目線を合わせて「ありがとうございます」と声をかける。

そんな姿を見せるのが、株式会社博水社の三代目社長・田中秀子氏(以下、田中氏)だ。

田中氏は、父と母が生み出したハイサワーを受け継ぎながら、今も酒場へ足を運び、飲む人の声に耳を傾けている。新しい商品や飲み方を考えるときにも、その出発点にあるのは、商品そのものだけではなく、その一杯を囲む人たちの姿だ。

では、田中氏が受け継いだハイサワーは、どのような家族の歩みから生まれたのだろう。

本連載では、田中秀子氏の幼少期から現在に至るまで、そのキャリアを全4回にわたってたどっていく。今回は、田中氏という人物と、その仕事への向き合い方を形づくった博水社の原点、そして父と母によるハイサワー誕生の物語を紐解く。

目黒の小さなラムネ屋から始まった

ハイサワーを作る株式会社博水社の原点は、田中氏の祖父が戦前に創業した小さなラムネ屋にある。当時の清涼飲料水といえば本物の果汁など手に入るはずもなく、ガラス瓶に砂糖水を注ぎ、ほんのりオレンジ色をつけて「オレンジジュース」と呼んで売っていたような時代だった。

太平洋戦争が激しくなると目黒の工場周辺に立ち退き命令が出され、一家は祖父の故郷である神奈川県平塚市へ避難した。終戦を迎えると、長男だった父と祖父の2人だけが目黒へ戻ってきた。周辺は空襲で大きな被害を受け、深川などは完全な焼け野原となっていた。それでも2人は目黒の地でラムネ屋を再開させた。戦後の物資不足の中、どうにか砂糖さえ仕入れることができれば、色水のようなジュースでも売れたという。

当時の東京には、同じようなラムネ屋が200軒ほど存在していた。特別な流通網などない時代、近所の駄菓子屋やおもちゃ屋、銭湯へ、三輪車や小型車で自分たちで届けて終わる、小さな商売の集まりだった。

だが、ラムネという商品には大きな課題があった。夏場は暑いから売れるが、冬になると冷たい飲み物はまったく売れなくなるのだ。せめて冬にもうちょっと売れるものはないか、このままラムネだけをやっていたら会社が持たないのではないか。父たちはそう悩みながらラムネを作り続けていた。

そんな中、会社再興の中心だった祖父が、ある朝起きたら突然亡くなっていた。急死だった。

残された父は、当時24歳。9人兄弟の長男で、下には8人の弟妹がおり一番下の妹はまだハイハイをしている赤ん坊だった。母親と幼い弟妹たちの面倒を見ながら、会社を背負うことになった。24歳の父の肩に、家族全員の暮らしがかかっていた。

5年の研究と、ロサンゼルスでの発見

ラムネだけではダメだと考えた父は、冬でもみんなが飲むお酒に着目する。お酒を作る免許はないが、お酒に関連するものなら作れるのではないか。そこで昼間はラムネ屋の仕事をしながら、夜な夜な始めたのが、ビールテイスト飲料の研究だった。

ビールの苦味や風味を出す原料「ホップ」を仕入れ、コツコツと調合を重ねること5年、6年。ようやく「これならいける」という味が完成しかけた。
ところが、試作品ができた矢先、原材料のホップが輸入できなくなってしまう。周りからは原料を変えればいいと言われたが、飲料の調合は簡単ではない。

フレーバーや果物のオイルを、1万分の1や1000分の1という細かな単位で入れていく世界だった。ひとつでも原料が変わると、味が変わってしまう。こうして5年以上の研究は中断することとなった。

変化が訪れたのは1975年のことだ。海外旅行が普及し始めた頃、父と娘の秀子氏、妹の3人でロサンゼルスやサンフランシスコへ旅立った。

現地で入ったバーで、父の目はある光景に向かった。外国人の人々が、グラスの中で何かを割って飲んでいたのだ。
ジントニックやブラッディマリーなど、スピリッツを何かで割るカクテルだった。

そして何より、父の印象に残ったのは、そこでお酒を楽しむ人々の姿だった。かしこまった格好ではなく、ジーパンにテンガロンハットをかぶった人たちが、思い思いにカクテルを楽しんでいた。

「お酒を作る免許はなくても、お酒を割るものなら自分たちで作れるんじゃないか。」

そこで父が目を向けたのが、同じ蒸留酒である焼酎だった。当時の関東では、焼酎は現在ほど幅広い飲み方で楽しまれていたわけではなく、焼酎を割って楽しむサワーも、現在のように酒場で広く親しまれる存在ではなかった。

焼酎をよりおいしく、気軽に楽しめるものにできないか。そう考えた父は、帰国後、割り材の開発に乗り出した。

ハイサワーの製造を始めた頃の工場(公式HPから引用)

「輩(ハイ)サワー」の誕生と地道な営業

味の完成を支えたのは、父の妻であり、後に三代目となる秀子氏の母だった。実のところ父はお酒があまり強くない。一方、母は大のお酒好きで、料理が得意だった。

お酒に弱い父と、お酒が強くて舌が肥えている母。父でも飲みやすい味を目指しながら、料理が得意な母にも意見を聞き、少しずつ調合を変えて味を整えていった。レモン果汁と炭酸の爽やかさを生かしながら、物足りなさのない味わいへ。父と母、両方がいたからこそ、そのバランスが生まれた。そして味づくりの最後には、いつも母が味見役を務めていた。

商品名は、父の「我輩が作ったサワー」という発想から、「輩(ハイ)サワー」と名付けられた。漢字の「吾輩のサワー」では瓶に印刷したときに文字が潰れてしまうためカタカナ表記にし、筆で書いた手書き文字をそのままパッケージにして、1980年に発売した。

しかし、商品が出来上がったからといって、特別な販売ルートがあったわけではない。父はハイサワーを抱え、目黒本町の工場から半径500メートル、武蔵小山までの飲み屋を一軒一軒回った。「ちょっと騙されたと思って飲んでみてください」と飛び込み、無料の試作品を置いて回った。
飲み屋のママたちの間では、「あの目黒本町のラムネ屋さん、何か変なの作ったらしいわよ」「うち、焼酎なんて置いてないわよ」と言われていたという。それでも「無料だから試してみて」とケースを置いていくと、飲んだ客から「さっぱりして美味しいじゃない」と少しずつ評判になっていった。

やがて、ママたちが集まる深夜のコミュニティで口コミが広がり、目黒から世田谷、杉並へ。さらに噂を聞きつけた酒屋が配達ルートに乗せてくれるようになり、ハイサワーは関東の酒場へと広がっていった。
そうして、一軒一軒の酒場を回って蒔いた種が実を結び、ハイサワーの知名度は徐々に高まっていく。そして、テレビCMを放映できるまでに成長した。女優の芦川よしみさんを起用した「わるならハイサワー」のCMも放映され、1980年代の居酒屋ブームとともに、ハイサワーはさらに多くの人に知られるようになっていった。

地道に配達をして酒場へ広がっていく。博水社のルーツ(公式HPから引用)

すべてを抱えない、柔軟な会社の仕組み

ハイサワーが広がる一方で、父には新たな課題があった。リターナブル瓶の回収と洗浄、充填を自社で行っていたが、スーパーマーケット向けなどにペットボトルや紙パックといった新しい容器を展開しようとすると、容器ごとに高額な充填機械を購入しなければならない。さらに、父の家族は妻と娘2人。「自分たちだけで工場をどこまで拡張できるのか」と考えていた。

そんな時、大手メーカーの清涼飲料の下請け製造を行うジャパンフーズが、飛び込みで営業にやってきた。

清涼飲料工場は春夏が繁忙期だが、冬場は稼働が落ちる。一方、ハイサワーは忘年会シーズンの12月が1年で最も売れる。冬場の仕事を求める大手工場と、設備投資を抑えて多種多様な容器を作りたい博水社の条件が合致した。

父はこの提携を決めて製造のアウトソーシングへと踏み切った。さらに、12月に売れた後、2月に売上が冷え込む季節変動に対応するため、運送も外部委託へ切り替えた。こうして自社でドライバーや多額の設備を抱えすぎず、社員約20名で回せる会社の仕組みが、父の代で作り上げられたのだった。

ハイサワーペットボトルラインナップ(公式HPから引用)

三代目へ受け継がれるハイサワー

冬に売れないラムネ屋から始まった挑戦は、こうして酒場を彩る1本の割り材となり、人々の集う場所へ浸透していった。

そうして1980年に生まれたハイサワーは、現在も多くの酒場で親しまれている。

そして今、父と母が作ったハイサワーと、父が築いた会社の仕組みを三代目として受け継いでいるのが、博水社代表の田中秀子氏だ。

しかし、田中氏は最初から博水社を継ぐことだけを目指して歩んできたわけではない。

幼少期に抱いていた夢。怪我によってバレエを続けられなくなった経験。会社に入って初めて直面した、数多くの「分からないこと」。それを人任せにせず、自分で理解するために選んだ異色の学び。そして、新しい商品や飲み方を生み出すまでの長い試行錯誤。

父と母が生み出したものを守りながら、田中氏は何を変え、何を新しく加えてきたのか。

次回からは、田中氏自身の人生へと焦点を移す。ここから3回にわたり幼少期から博水社へ入るまでの道のり、経営者になるために重ねてきた学び、そして今も足を運び続ける酒場での姿を通して、三代目・田中秀子氏という人物に迫っていく。

この記事を書いた人

bacchante編集部