酒場でハイサワーを飲んでいる若者に美尻シールを配る女性がいる。株式会社博水社の三代目社長の田中秀子氏(以下、田中氏)だ。
初めて彼女と会ったのは、武蔵小山の晩杯屋であった。
店を後にする際、田中氏は「ちょっと先に出ててください」と言った。そして、ハイサワーを飲んでいる他のお客さんに「ありがとう」と言って、ハイサワーを象徴する美尻シールを配り歩き始めたのだった。
なぜ、そんなことをするのかと聞くと、彼女はこう答えた。
「自分が飲んでる飲み物を作ってる会社の社長が、いきなり美尻シールを渡してきたら、みんな『まさか』って思うかもしれないけど、喜んでくれるかもしれないし。それに、飲んでもらってることがとっても嬉しくって。」
その姿には、自社の商品を誰かが飲んでくれていることへの、素直な喜びがあった。
社長本人が酒場で飲んでいる人のもとへ足を運び、直接シールを手渡す。そこには、商品を選んでくれた人への田中氏なりの感謝の伝え方がある。田中氏にとって、自社の商品を誰かが飲んでくれている光景は、それほど嬉しいものなのだ。
なぜ、この人は誰かがハイサワーを飲んでいるだけで、こんなにも嬉しそうなのだろう。

生活必需品じゃないからこそ、徹底的に楽しく
その背景には、田中氏のお酒に対する独自の考え方と、博水社という会社への想いがあった。
「お酒ってさ、お米とかパンとか納豆みたいな生活必需品じゃないじゃないですか。あってもなくてもいいものじゃないですか? だからこそ徹底して楽しく飲めるっていうのがもう基本かなって思っているんです。」
田中氏はそう語る。酒場という場所には、独特の空気がある。何の仕事をしているかも関係なく、たまたま隣に居合わせた人とワイワイ楽しく飲める。後になってから「へぇ、そんな仕事をされていたんだ」と知るような関係が生まれる。
「スターバックスで10回顔を合わせてもなかなか仲良くはならないけれど、酒場ならたまたま隣に居合わせた人と一瞬で仲良くなれちゃう。」
生活必需品ではないからこそ、徹底して楽しく飲める場所にする。それが田中氏の考える酒場の基本であり、商売の原点だ。
「ふたりがやってるのを、手助けできるかな」
では、なぜ田中氏はここまでハイサワーを大切に思っているのか。その理由を紐解くには、田中氏が見つめてきた父と母の姿へと遡る必要がある。
かつて博水社に入社した時のことを、田中氏はこう振り返る。
「すごく会社を大きくしようとか、そんな立派なものは全然なくて。『お父さん、お母さん、大変そうだよね。ふたりがやってるのを、ちょっと手助けできるかな』って。多分そこだけだと思うんですよね。」
若い頃の田中氏の目に映っていたのは、後継者としての壮大な夢ではなく、現場で働き続ける父と母の姿だった。
博水社は祖父が目黒で始めたラムネ屋が原点だ。終戦後の焼け野原から再開し、祖父が急死した後は、当時わずか24歳だった父が8人の弟妹と母親を養うために会社を背負った。
1975年、父と田中氏、妹の3人で渡米した際、現地のバーで普通のおじさんたちがグラスの酒を割って飲んでいる光景や、すでにあった老舗居酒屋「ばん」の人気メニューをヒントにし父はハイサワーを着想した。
お酒があまり強くない父と、お酒が強く、料理が得意で舌の肥えていた母。父が試行錯誤しながら味をつくり、最後にはいつも母が味見をして、そのバランスを確かめていた。お酒に対する感覚の異なる2人がいたからこそ、ハイサワーの味が少しずつ整えられていった。
「お父さん、お酒強くないんですよ。お母さんすごく強い。だから多分ね、両方がいたからよかったかも。お酒は強すぎると、どんなお酒でも何でも美味しく感じてしまうかもしれないし、弱すぎるとすぐに酔っ払っちゃって、味見も途中で分からなくなるし。」
父は出来上がったハイサワーを抱え、目黒本町の工場から半径500メートル、武蔵小山までの飲み屋を一軒一軒回った。工場で働いてくれていた皆と「どこから行こうか」と話し合い、行きつけの飲み屋へ「こんにちは!」と飛び込んでいった。
飲み屋のママたちからは、「さっぱりして美味しいじゃない」と喜ばれることもあれば、「うちのお客さんに焼酎なんてそんな失礼なもの出せないわよ」「お酒にレモンと炭酸なんてありえないわよ、日本酒だって割らないでしょ?」と言われることも多かった。それでも「騙されたと思って1回飲んでみて!」とケースを置いて回った。そうして深夜のママたちのコミュニティから口コミが広がり、酒屋が配達ルートに乗せてくれるようになっていった。

氷のような床と、びしょ濡れの工場
田中氏には、子どもの頃の忘れられない工場の光景がある。
「昔のラムネ屋さんの工場って、水をすっごく使うんですよ。真冬でも床に水がジャバジャバ流れていて、まるで氷の上みたいに冷たくて。でも締め切るわけにいかないから、吹きさらしの中で、工場で働いてくれていた皆も父も、びしょ濡れになりながら機械を回していたんです。それを見ていてね……」
そんな寒い工場へ、母は大きな鍋いっぱいの熱々の豚汁と、おにぎりをいつも運んでいたという。冷え切った体を温めるように、父や工場で働く人たちは、湯気の立つ豚汁を囲んで食べた。それは、田中氏が幼い頃から目にしてきた日常の風景だった。
24歳で突然家族と会社を背負い、真冬の工場で濡れながら働き、出来上がった商品を一軒一軒売り歩いた父。その父や工場で働く人たちを温かい食事で支え、商品の味を確かめる役割も担っていた母。
そんな2人の姿をそばで見て育ったからこそ、田中氏にとって博水社に入ることは、「会社を継ぐ」という大きな決意から始まったものではなかった。大変そうな父と母を「少し手助けしたい」。その想いが、田中氏を博水社へと向かわせた。
最初から三代目になろうとして入社したわけではない。
だが、父と母が汗を流して作り上げ、大切にしてきたハイサワーという商品を、いま田中氏自身も大切に扱っている。
現場へ行き、人と直接向き合い、商品を売るだけでなく飲んでくれる人を大切にする。そして、生活必需品ではないお酒だからこそ、徹底的に楽しくする。
父と母が大切にしてきた商売の姿勢は、そのまま田中氏の中に存在している。
だからこそ、田中氏は今日も酒場でハイサワーを飲む人に駆け寄り、「飲んでくれてありがとう」と美尻シールを渡すのだ。

【編集部ノート】
第1回では、酒場での田中秀子氏の姿から、博水社とハイサワーに受け継がれてきた原点をたどった。
印象的だったのは、田中氏が最初から「三代目社長になる」という大きな目標を掲げて博水社へ入ったわけではないことだ。出発点にあったのは、「大変そうな父と母を、少し手助けできるかもしれない」という、家族への素朴な想いだった。
24歳で家族と会社を背負い、真冬の工場で濡れながら働き、完成したハイサワーを抱えて一軒ずつ酒場を回った父。商品の味を確かめる最後の味見役を担い、また父や働く人たちを支えた母。
田中氏が受け継いだのは、商品や会社だけではない。現場へ足を運び、目の前の人と向き合い、人を大切にしながら商売を続けていく姿勢だった。
「生活必需品ではないからこそ、徹底的に楽しくする」。その考えは、父と母が酒場へ届けた一杯から、現在の田中氏が手渡す美尻シールまで、変わることなくつながっている。
次回は、バレエ留学を目前にして夢を断念した田中氏が、どのように博水社へ入り、「分からないこと」ばかりの現場と向き合っていったのか。その異色の学びと、三代目になるまでの歩みに迫る。
(第2回へ続く)
文|山本龍成