バレエ断念から、短大、23歳での入社へ
幼い頃から本格的にクラシックバレエに打ち込み、高校卒業後はニューヨークのバレエ学校へ留学することが決まっていた。ところが、渡米を目前にして重度の腰痛を発症してしまう。
「3、4ヶ月入院して色々治療をやったんだけど、結局『毎日踊る生活に戻ることはもう無理だと思う』と言われてしまって。今でも背骨がボコって出ているコブみたいのがあるんですけど、それで留学を断念せざるを得なくなったんです。」
目標を失い、趣味でジャズを歌ったりしながら短大の英文科へ進んだ。たまたま通っていた小学校に1年生から英語の授業があり、英語に馴染みがあったことも理由だった。そして同級生たちが大学を卒業して就職を迎える23歳の頃、「親の会社なら手伝いができるだろう」と博水社へ入社した。
工場で交わされる会話が「日本語に聞こえない」
子どもの頃から工場の周りを走り回って遊んでいたため、中に入れば自分の会社のことはすぐに分かるはずだと思っていた。
だが、現実は違っていた。いざ一歩足を踏み入れ、現場で働く人たちの会話を聞いたときの様子を、田中氏はこう振り返る。
「『親のところだったらできる』と浅はかに入ったんですけど、何もわからない。いざ工場に入ってみると、工場で働いているみんなが『ペーハーがどうだ』『殺菌の温度がどうだ』『菌の状態がどうで』『果汁のパーセントがなんとかで』『ブリックス(糖度)がなんとか』って話している。全く日本語に聞こえなくて、『これヤバい、分からなさすぎる』と思いました。」
日本語を話しているはずなのに、周りの大人が何を言っているのか理解できない。
幼い頃から馴染み深かったはずの会社は、専門知識で動く場所だったのだ。
分からないままにしておくことはできないと考えた田中氏は、清涼飲料の製造工程や殺菌の仕組みを学ぶため、東京農業大学の社会人枠(醸造学)に応募し通い始めた。
昼間は大学で醸造や食品管理の講義を受け、夕方に会社へ戻って工場の現場に立つ。すると、それまで音としてしか聞こえなかった工場で働く人たちの会話が、意味を持ち始めた。
「大学に行くと『あ、物はこうやって殺菌してるんだな』とか『炭酸ガスが入っていて、温度を上げすぎたら瓶が爆発するのか』とか、当たり前のことなんですけど分かるんです。会社に戻ってくると、先週学校で言ってたな、みたいなことを工場で働いているみんながやっている。『ああ、言ってた言ってた。なんかペーハーね』みたいな感じで。」
学校での講義と現場の動きが結びつき、理解できなかった工場の言葉が分かるようになっていった。
「法人税だけやりたいんです」税理士学校への直談判
しかし、知るべきことは現場だけではなかった。会社という組織である以上、お金と経営の数字が存在する。
社長である父や番頭さん、税理士さんたちが会議をしている場に同席した田中氏は、再び言葉の壁にぶつかる。
「税理士さんたちと話してる言葉が、全くわからないじゃないですか。うちの社長、父とか番頭さんが税理士さんたちと話してる。そして今度あのタウンページみたいな分厚い総勘定元帳がいっぱい出てきてさ。法人税がどうとか……。やってないし見てないし、この世にタウンページより分厚いものがあるのかと思って(笑)。やばいわ、会社って分からないと本当に何も分からないんだと思ってね。」
数字が分からないと会社のことが分からない。田中氏は、渋谷にあった税理士学校の夜間コースへ通うことにした。そこは何年もかけて税理士資格の取得を目指す人たちが通う専門学校だったが、目的は資格ではなかった。
「学校に行って『すいません、私はとにかく切羽詰まってるんで、法人税っていう科目だけやりたいんですけど』って直談判したんです。学校からは『それだけ受けたって税理士になれないよ』って言われたけど、『そこを目指してるわけじゃなくて、会社に行って困っちゃってるんで』って。」
19時半、仕事を終えたサラリーマンたちに混ざり、週に2回「法人税」の講座だけを勉強した。すると、会社で税理士たちが話している内容や、分厚い元帳の意味が分かるようになった。
「すごい遠回りしてると思う。分からないくせに突入してるからだよね。でも、そこで勉強して会社に戻ってくると、やっぱり学校で勉強したものがちゃんと分かるようになるんです。」
現場の技術と経営の数字を自ら勉強したことで、田中氏は父が作った会社の仕組みや、財務状況の意味を理解できるようになっていった。

父のレシピを親子で形にした「ハイサワーハイッピー」
そんな中、田中氏は会社の中で、父が20代の頃に残した1枚のレシピを見つける。当時は原材料が手に入らず、商品化を断念したものだった。時代が変わり、必要な原材料を入手できるようになったことで、父とともにもう一度挑戦することにした。
「『あの時どんな感じで作ろうとしたの?』って聞いて。その頃にはもう時間も経って、世界中からホップが輸入できるようになっていたから、『ちょっともう1回挑戦してみよう』って、親子2人でやり始めたんです。」
父がかつて形にできなかったレシピに、親子で一緒に手を加えながら完成させたのが、現在も販売されている「ハイサワーハイッピー」だ。田中氏が学んできた製造の知識と、父が積み重ねてきた経験が重なり、新たな商品として形になった。
その後、父娘の商品づくりには大きな転機が訪れる。
約20年前、父が胃がんを患い、胃の3分の2を切除する手術を受けた。命は取り留めたものの、その後、甘さや酸っぱさの感じ方が変わり、それまでのように新商品の処方を組むことが難しくなったという。
そこで、商品の味づくりを担うようになったのが田中氏だった。
レモン果汁や果物のフレーバーを細かな単位で調合し、頭の中で思い描いた味を一つひとつ形にしていく。現在では、商品の処方(レシピ)を自ら組み、味の最終決定まで担っている。
かつては父のレシピを一緒に形にしていた田中氏が、やがて自ら味をつくり、決める立場へ。製造を学び、会社の数字を学び、実際の商品づくりを重ねながら、少しずつ父が担ってきた役割を引き継いでいった。
そして田中氏は、正式に三代目社長を引き継いだ。

名前から始まった「スンチー」
そんな田中氏に、自社製品の中で好きな1本を尋ねてみた。
挙がったのが「ハイサワースンチー 杏仁檸檬」だった。
この商品には、少し変わった生まれ方がある。
普通なら味をつくり、そこから商品名を考えることも多いだろう。しかし「スンチー」は逆だった。
先に「スンチー」という名前を決め、そこから「どんな味にしようか」と考えていったという。
「スンチー」は中国語に由来し、「神奇奇」と書く。「驚くほど素晴らしい」という意味を込めた言葉だ。
その由来を話しながら、田中氏は嬉しそうに微笑み、こちらに親指を立ててみせた。
「いいね、って感じ。スンチー!」
言葉の意味を説明しているというより、「スンチー」という響きそのものを楽しんでいるように見えた。
そんな名前から膨らませていったのが、杏仁の香りにレモン果汁を合わせた甘酸っぱい味わいと、目でも楽しめるやさしいピンク色だった。
父が残したレシピに向き合い、一緒に手を加えながら商品として形にする。
一方で、名前や飲む人の気持ちから新しい味を考える。
受け継いだものをそのまま再現するだけではなく、そこから自分なりの商品を生み出していくことも、田中氏の商品づくりの一面だ。
「例えば『こういう味にして、これくらいの甘さにしたいな』って頭の中で考えたものを作れるのは、やっぱり農大に行っていたからなんです。果物のフレーバーを自分の中で作って1000分の1とかで調合していくんですけど、私、全部自分で処方組んでますから。商売をやるうえで、作る技術とお金の計算、この2つが分かっているのはすごく大きかったなって思いますね。」
23歳で博水社へ入ったとき、工場で働く人たちが話す言葉は「日本語に聞こえなかった」。
会社の会議に出れば、法人税も総勘定元帳も分からなかった。
そのたびに田中氏は学校へ行き、学び、会社へ戻ってきた。
そこで身につけた「作る技術」と「お金の計算」は、今では自ら商品の味をつくり、会社を経営するための両輪になっている。

【編集部ノート】
第2回では、田中氏が、博水社へ入社し、製造と経営を一から学びながら三代目社長になるまでの歩みをたどった。
田中氏の強さは、最初から何でも知っていたことではない。
「分からない」と認めたうえで、自分の言葉で判断できるようになるまで学び続けたことにある。
その学びは、父が20代の頃に商品化を断念したレシピに親子で再び向き合い、手を加えながら、現在も販売されている「ハイサワーハイッピー」として形にすることにもつながった。さらに田中氏は、自ら商品の処方を組み、新しい商品の味をつくるようになっていく。
作る技術と、お金の計算。その両方を自ら理解したからこそ、田中氏は父母が築いた会社を守るだけではなく、新しい商品を生み出す三代目になれたのだろう。
次回は、田中氏が「自分の先生」と呼ぶ酒場へ。町中華の大将、老舗酒屋の社長、バーテンダーとの会話から、どのように新しい商品や飲み方が生まれてきたのかを追う。
(第3回へ続く)
文|山本龍成